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山本神父入門講座

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クリスマス編 第2回

クリスマスとプレゼント

イエスの誕生の知らせを受けた羊飼いたち

クリスマスで連想することは? と聞いたら、クリスマス・プレゼント、クリスマス・パーティー、クリスマス・ツリーという答えが返ってくるだろう。飾りつけた樅(もみ)の木を囲んで、シャンパン、ケーキ、さまざまなお料理。乾杯のあとは白と赤のワイン。

宴たけなわになった頃、サンタクロースの登場。肩に背負った白い袋から、紙包みを一つずつ取り出し、一人一人に配っていく。リボンをほどき包みを開けて、「これ私が欲しいと思ってた」とか、「あなたからのでしょう、ありがとう」とか、一層はなやいだ雰囲気になる。みんなで集まって、楽しい一時を過ごしている。

しかし、なぜ? 「キリストの誕生をだしにして、飲んだり食ったり、騒いだりしているだけだ」と口の悪い人が言うのを聞いた。それはあんまりだ。せめてそうであってほしくはない。

でもどうすれば、「だし」にするのでなく、クリスマスを祝えるのか。本気でクリスマスの心を探って、それを生かすことである。クリスマスの心。クリスマスにはどんな心がこもっているのだろうか。聖書に書いてある。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節) 。

クリスマスの心は神さまの愛だと言うのだ。みんなが喜んでいるのは、神さまがわたしたちを心にかけでくださったからなのである。


わたしたちの不幸や苦しみを取り除き、しあわせにするため、救い主として自分がいちばん大切にしている独り子を、ご自分のもとから、この世に遣わされたからである。クリスマスは、神さまが、わたしたちにくださった愛の贈り物である、独り子イエス・キリストを祝う日なのである。

しかも、神がわたしたちを愛されたのは、わたしたちが神さまを大切にし、よくお仕えしたからではなかった。わたしたちの愛へのお返しではないのだ。神が自分の方から、自発的にわたしたちを心にかけて下さったのである。

贈り物は、贈る人の心を表すしるしである。最初のクリスマス・プレゼントには、神の自発的な愛がこもっていた。今年、クリスマスを本気で祝いたければ、まずわたしたちが交換するクリスマス・プレゼントに、贈る相手に対するまごごろと愛をこめることである。


キリストの弟子パウロは、キリストの贈り物について書いている。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(2コリント 8章9節 b,c)。

 イエスは、神のもとで神であることの豊かさを余すところなく持っておられた。この世に遣わされて人となったとき、そのすべてを犠牲にして、いろいろな限界と不足のある生き方を選ばれた。損得勘定をすれば、これほど損なことはない。

しかし、キリストは人間の貧しさを自分のものとすることによって、わたしたちにたくさんのことを与えてくださったのである。

このように考えると、クリスマスは損得勘定を超越する心、自分のことを考えるよりも、相手のこと、周りの人のことを考え、その人びとのためによいことをする心をあらためて学ぶ日でもある。

クリスマスというと、プレゼントに何を貰おうか、「獲得」しようかと考える傾きがあるが、その気持ちはあまりクリスマス的ではない。


映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」に出てくるアシジのフランシスコという聖人がいる。この聖人は、貧しさの中に生まれたイエスの心を感じ取ったと言われる。彼の「平和の祈り」は、その心をよく表している。

  主よ、わたしを平和のためにお使いください。
  憎しみのあるところに愛を、
  争いのあるところにゆるしを、
  ・・・主よ、慰められるよりも、慰めることを、
  理解されることよりも、理解することを、
  愛されることよりも、愛することを求めますように・・・。
                     (この祈り全文はこちら

世の中は不況である。しかし、自分さえよければ、人はどうなってもよいという、あの自己中心主義はもっと悲しい。経済的困難のためか、エゴイズムがはびこっている。

アシジのフランシスコとともに、クリスマスの心である愛を、神が、まずクリスマス・プレゼントとして、すべての人にくださるように祈りたい。

クリスマスは、微笑ましい祝日である。しかし、その本当の心を捉えるのは容易なことではない。

この次は、マタイによる福音書が描く、東の国の学者たちとユダヤのヘロデ大王のことを取り上げよう。

ヨハネの手紙 1 (新約聖書の一書)

 神は、独り子を世にお遣わしになりました。
 その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
 ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、
 わたしたちも互いに愛し合うべきです。

 いまだかつて神を見た者はいません。
 わたしたちが互いに愛し合うならば、
 神はわたしたちの内にとどまってくださり、
 神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。
                  (4章9,11,12節)

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