home>キリスト教入門>カテキズムを読もう>第3編 キリストと一致して生きる>第1部>第128回 真福八端

カテキズムを読もう

バックナンバー

第128回 真福八端


第2項 至福への召命

 
1 真福八端
 

皆さん、「真福八端」という言葉をご存じですか? 共同訳聖書には、真福八端という言葉が使われていないので、新しく洗礼を受けられた方の中には、「聞いたことがありません。何ですか」とおっしゃる方がいらっしゃいます。

その逆に、「『心の貧しい人は幸いである、天の国はその人たちのものである』という言葉は聞いたことがある?」と尋ねると、「はい、あります。いい言葉ですね。私、すきです」と、ほとんどの人が答えます。「これが、『真福八端』なのよ」、と言うと、「えーっ」と驚きます。これは毎年、私がかかわっている教会でのカトリック入門講座において、繰り返される一こまです。

真福八端は、マタイ福音書の5章~7章に、「山上の説教」としてイエスの教えがまとめられていますが、その最初に書かれている部分です。ぜひ、マタイ福音書を開いて、5章3節~12節をご覧ください。なぜ、「真福八端」と、呼ぶかと申しますと、私たち人間にとって、本当の幸福を8つの短い言葉で、イエス様が教えてくださっているからです。この「真福八端」は、イエス様の教えの中心です。

でも、この「真福八端」を読んで、おかしい、と感じる人がいるかもしれません。「私たちが、普通考えている幸福とは違う」と感じる人も多いと思います。そうです。普通、「悲しむ人は幸い」とか「迫害される人は幸い」と考える人はいません。多くの人は初詣でどんなことを神様にお願いしたかと問われて、「家族みんなが健康であるように」とか、「家内安全、商売繁盛」とか、「今年は受験だから、志望校に入れるように」とか祈るとのことでした。ずいぶん、幸福感が違います。

じつは、「真福八端」を本当に生きられたのは、イエス・キリストです。マタイ福音書を書いたイエスの12使徒の一人マタイは、この「真福八端」によって、イエス・キリストの姿を描き出し、その愛を映し出しているのです。また、これは、同時に私たちキリスト信者が、キリストのみ跡に従って生きるとき、キリストの受難と復活の道をたどり、キリストの栄光にあずかるという召命をも表しているものです。

「真福八端」の幸福は、目には見えなくても、イエス・キリストによってすでに与えられた祝福と報いを、キリストに従う弟子たちに 告げているものです。同時に、この幸福な状態は、聖母マリアや多くの聖人たちによって、確かに生きられているものなのです。

前へ 

▲ページのトップへ