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第24回 イエス・キリスト、神のひとり子、わたしたちの主


今回から、イエスとはどんな方かということに入ります。私たちは、「イエス・キリスト」とか「イエスは神の子」という言葉を言ったり、聞いたりしますが、まず、その深い意味から探っていきましょう。


第2項「イエス・キリスト、神のひとり子、わたしたちの主」


1 イエス

ルカ福音書の1章には、大天使ガブリエルが神から遣わされて、ナザレ村のおとめマリアに、「おめでとう。恵まれた方。……あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。イエスという名前は、神が大天使を通して付けられた名前です。それは、ヘブライ語で「神は救う」という意味を持っている言葉でした。

神は人に使命を与えられるとき、新しい名前を与えられます。アブラムには「アブラハム」という名前を、シモンには「ペトロ」という名前を与えられたように、イエスには、「神は救う」という名前で、救い主として使命を与えられたのです。

人祖が神に対して犯した最初の罪を「原罪」ということ、またそれが、すべての人間に及ぶものだということについては、すでにお話しました。この罪は人間が、神に対して犯した罪でしたから、完全にその罪を償うためには、完全な神であり、完全な人である方のみが、原罪を償うことがおできになるのです。

イエスがこの世に来られ、人となられ、人祖の罪を償うために、苦しみを受け、十字架に付けられ、死んで葬られ、3日目に復活されたことによって、原罪を犯した人類は、このイエスの名によってのみ救いが与えられることになったのです。

イエスの名は、キリスト者の祈りの中心的な役割を果たすものです。ミサにあずかったことのある方は、色々な祈りが「わたしたちの主イエス・キリストによって」という言葉で結ばれることに気づかれたことでしょう。そうなのです。典礼における祈りは、この言葉で祈られているのです。

「イエスへの祈り」という祈りを唱えたことがありますか。これは東方教会の人びとが大好きな祈りです。もちろん、カトリックの信者たちも唱えます。それは、このような祈りです。「イエス・キリスト、神の御子、主よ、罪びとであるわたしをあわれんでください」。このように短い祈りですから、覚えて、しばしば唱えてみましょう。


2 キリスト

私たちは、「イエス・キリスト」がひとつの名前だと思っていますが、この「キリスト」という言葉にも意味があるのです。「油注がれた者」という意味です。これはヘブライ語で「メシア」つまり「救い主」を表しています。

イスラエルでは、王や祭司、預言者に油を注いで、神から与えられたその使命を果たすように聖別していましたが、特に神の国を建てるために来られる方・メシアを「油注がれた者」として待ち望んでいたのです。キリストがお生まれになったクリスマスの夜、天使が、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった。このかたこそ主メシアである」と羊飼いたちに伝えました。

イエスのメシアとしての聖別は、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時、神は「これはわたしの愛する子、かれに聞け」と、イエスへの聖別を明らかにされました。イエスは、その行いと言葉によって、多くのユダヤ人からキリスト・メシアとして認められていました。しかし、当時の人は、「メシア」を他国による政治的支配から解放してくれる方として期待していました。

イエスのメシアとしての使命は、ご自身、受難の前に使徒たちに告げられましたが、彼らにはよく理解できませんでした。真の意味が明らかにされたのは、十字架上でであり、イエスの復活後、使徒たちははっきり理解できたのでした。


3 神のひとり子

「神の子」という言葉は、旧約聖書では、天使や王などを呼ぶときに使われていますが、イエス・キリストを「神の子」というとき、それとは意味が全然違います。キリストの洗礼と変容の時、御父がイエスを「わたしの愛する子」と呼んでおられることを、福音記者たちは書き記しています。そして、イエスは御父を「わたしの父」と呼んでおられます。

イエスご自身、自分のことを「神のひとり子」とおっしゃっています。キリストのこの「神のひとり子」としての身分が栄光をうけられるのは、復活の後のことです。使徒ヨハネは、その栄光を見て、「わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書いています。


4 主

「主」という言葉は、旧約時代から、神の神性と主権を表す名前でした。新約聖書では、この「主」という言葉を、御父を表すだけでなく、イエスにも使っています。

人びとはイエスにお会いして、「主よ」と呼びかけました。イエスの復活を疑っていたトマスは、復活したイエスに出会って「わたしの主、わたしの神よ」と叫びました。これはイエスへの礼拝の言葉であると同時に、イエスへの愛を表す表現でもありました。私たちがイエス・キリストを「主よ」とお呼びするとき、いつもイエスへの愛と感謝が込められているのです。

教会はその初めから、信仰を宣言するときに、イエスを「主」と呼んできました。また、キリスト教の歴史の初めから、世界と歴史に対してイエスが主権を持っておられることを主張してきました。

第2バチカン公会議で出された『現代世界憲章』では、「全人類史のかぎ、中心、目的は、主であり師であるキリストのうちに見いだされる」と言っています。ですから、私たちキリスト者の祈りには、「主」を呼び求める祈りが多いのです。ミサ中の「主は皆さんとともに」や、「主よ、来てください(マラナ・タ)」など、数え上げればきりがないほどです。ここでも、最後に「要約」がついています。簡単にまとめられていますから、役に立つと思います。

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