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第31回 イエスは十字架につけられて死ぬ


キリスト教を知らない多くの人々は、「キリストが神の子と言うなら、なぜ、十字架という犯罪人が受ける刑罰で死ななければならなかったのですか」と質問なさいます。神の子が死ぬ、確かに、キリストを信じていない人にとっては不思議な、訳の分からないことでしょう。今日は、そのことについての説明です。


第2節 「イエスは十字架につけられて死ぬ」


1 イエスの裁判

イエスに対するユダヤ人指導者たちのさまざまな考え

エルサレムの宗教指導者の間には、イエスに対する見解の一致は見られませんでした。 しかし、このままにしておくと、皆がイエスを信じるようになると心配した大祭司たちは、イエスを涜聖者として死刑にすべきだと決定したのです。当時の宗教指導者たちには、死刑の決定を下しても、処刑する権利はありませんでした。そのため、政治的反逆ということで、ローマ総督ピラトに、イエスの死刑を迫ったのです。


イエスの死の責任はユダヤ人全体にはない

十字架上で亡くなられたイエスの死の責任は、だれにあるのでしょうか? イエスを売ったユダや死刑の宣告を下したピラトに責任があるのでしょうか。彼らにどのような責任があるかは、神におまかせしたほうがいいでしょう。

イエスは、「かれらをおゆるしください。自分が何をしているかわからないからです」と十字架の上から祈られました。イエスの死の責任を、あらゆる時代、あらゆる所に住むユダヤ人にまで、負わせることはできません。


キリストの受難の責任はすべての罪びとにある

教会は、「私たちの犯した罪ゆえに、キリストはあの受難の苦しみを忍ばなければならなかった」ということを、最初から教えています。すべての罪人、私たちのためにキリストは十字架に付けられたのです。昨年、「パッション」という映画がきましたが、あの映画の制作者は、「私の罪のために、キリストが死んでくださった」ということを痛感したことから、あの映画を制作したいと思うようになったそうですが、彼だけではなく、私たちも一人ひとりがその思いがもてたらと思います。


2 神の救いの計画におけるキリストのあがないの死

「イエスは神のお定めになった計画によって引き渡された」

イエスの死は偶然の結果の死ではありませんでした。神のご計画によるものでした。しかし、この「神のご計画によって」ということは、イエスに死を宣告し、殺した人々が神の計画によって、前もって予定されていたのだということではありません。

時間の中に住んでいる私たちには理解しにくいことですが、神の目には、いつも現在なのです。神の「ご計画」には、神の恵みに対する私たちの自由な応えが含まれています。ですから、自由という神の恵みへの濫用を、神は妨げられなかったのです。


「聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死なれた」

イエスが復活なさったという話を聞いた後でも、それを信じることができず、がっかりしてエルサレムを離れてエマオに行こうとしていた2人の弟子に、イエスが現れて、旧約聖書が救い主キリストについて、どのように述べているかを説明なさいました。

聖パウロは、コリントの信徒に宛てた手紙の中で、「キリストは、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」と信仰宣言しています。「神は罪とかかわりないかたを、わたしたちのために罪となさいました」イエスご自身、なんの罪もない方でした。

原罪とそれに引き続いて犯され続けた人類の罪、そして私たちの罪のために、神から遠く離れていた私たち人類を、神のもとに連れ戻すために、神はご自分のひとり子イエスを、罪のために死に定められている人間の姿で、この世に遣わされました。それは、私たちのために苦しみを受け、死に、私たちのために罪の償いをし、私たちを神と和解させるためでした。


「神はご自分のほうから、普遍的なあがないの愛を示された」

イエスのこのような死は、私たちが義人だったからではなく、私たちが罪人だったからでした。これは、神が先に私たちを愛してくださり、御子を遣わしてくださったことを示すものです。この神の愛は、だれをも除外しない愛です。

イエスは、迷いでた1匹の羊のたとえ話をなさいましたが、羊を見つけると喜んで帰ってくる羊飼いになぞらえ、神が小さな人が1人でも滅びることなく、神のみもとにたどり着くことが、天の御父のみ心であることを教えてくださいました。

イエスご自身「多くの人の身代金として自分のいのちをささげる」と明言なさいました。この「多くの人」という言葉を、当時の人々は「すべての人」の意味で使っていた言葉です。イエス・キリストは、過去、現在、未来のすべての人、ひとりの例外もなくすべての人のために、苦しまれ、亡くなられたのです。その中に、もちろん、あなたも私もいます。

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