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第58回 「典礼」とは


第2編 キリスト教の神秘を祝う


今日から、いよいよ第2編「キリスト教の神秘を祝う」に入ります。今回は、まず、その序文にあたる部分についてお話しいたしましょう。


典礼を行う理由

イエス・キリストは、ご自分がすべての人のためにいのちをささげられたその死と復活によって、死に定められていた私たちに、永遠のいのちを与えてくださいました。

教会は、このイエス・キリストの救いのみわざを「過越」の神秘と呼んでいます。典礼において祝うのは、この過越の神秘です。典礼において祝うこの神秘を、私たち信者一人ひとりが生き、周囲の人々にこのキリストの神秘をあかしするように招かれています。


「典礼」の語の意味

「典礼」という言葉は、もともとギリシア語では、「人々への奉仕」や「公共の事業」という意味で使われていた語です。キリスト教では、神の民が「神のみわざ」に参与することを意味して用いています。新約聖書でこの言葉は、「神を礼拝する祭儀」、「福音の告知」、「愛の実践」の意味でも使います。これらすべては、神と人々への奉仕だからです。


いのちの泉としての典礼

教会は、神と人との交わりの目に見えるしるしですが、典礼は、その教会を形成し、表現するものです。典礼は、信者を教会共同体のいのちの交わりに入れるのです。典礼祭儀を行う前提にあるものは、福音宣教、信仰、回心です。これらがあるからこそ、典礼が信者の信仰生活に実りをもたらすのです。


祈りと典礼

典礼は、キリストの祈りにあずかることです。キリスト者の祈りのすべての源と到着点は、典礼のうちに見いだすことができます。


カテケージスと典礼

第2バチカン公会議の『典礼憲章』には、次の有名な言葉が書かれています。「典礼は教会の活動が目ざす頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉です」と。典礼は、教会の要理教育のために、非常に優れた場となっています。典礼によるカテケージス(要理教育)は、私たちを、キリストの神秘に導き入れ、見えるものから見えないものへ、意味するものから意味されるものへ、「秘跡」から「神秘」へと導くことを目的としています。

では、次回から、第1部に入っていきましょう。

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