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第191回 信仰


みなさん、「対神徳」という言葉をお聞きになったことはありますか。神に対するわたしたち人間の側からのいちばん大切な倫理徳だといわれているものですね。具体的には、「信仰」「希望」「愛」を指して、対神徳と言います。

わたしたちの倫理生活の源泉は、わたしたちに、ご自分の愛を啓示してくださった神への信仰そのものの中にあります。

聖パウロは、人間であるわたしたちの神への第一の義務は、「信仰による従順」だと「ローマの信徒への手紙」の中で言っています。また、同じ手紙の中で、聖パウロは、すべての倫理的逸脱の原因は、「神についての無知」からくるものだ、と言っています。つまり、わたしたちの神に対する義務は、「神を信じ、神をあかしする」ことなのです。

「あなたの神である主を拝み、主に仕えなさい」という第一のおきては、わたしたちに、賢明に警戒して信仰を養い守ると同時に、信仰に反するあらゆることがらを避けるようにと要求しています。

信仰に反する罪には、さまざまな形があります。たとえば、次のようなものが挙げられます。

信仰に対する故意の疑い――これは、神が啓示され、教会が信じるようにと教えていることがらを、拒否したり、正しいことだと認めることをなおざりにしたりすることです。

神は、イエス・キリストを世に遣わし、12使徒を選び、御父のみ心を知らせ、すべての宝を委ねてくださいました。そして、ご自分が御父のもとに帰られる時、聖霊を遣わし、使徒たちとその後継者によって、その宝が教会によって保たれ、今に至るまで伝えられています。ですから、神が啓示され、教会が信じるようにと教える信仰、真理を、知りながら疑いを深めれば、精神的な盲目へと陥ってしまう危険があるのです。

今、「故意の疑い」についてご節米いたしましたが、「故意でない疑い」というものもあるのでしょうか。それが、実はあるのです。

故意でない疑い――信じることをためらったり、信仰に対する反論に打ち勝つ困難を感じたり、信仰の内容が不明瞭ということで、不安を覚えたりすることを指しています。

疑いの段階よりも、もっと重大なことは、不信仰です。不信仰とは――啓示された信仰を軽んじること。あるいは、それに同意するのを故意に拒絶することです。

『教会法典』では、以下のように区別して述べられています。 異端――受洗後、神的かつカトリックの信仰をもって信ずべきある真理を執拗に拒否するか、またはその真理について執拗な疑いを抱くこと。

背教――キリスト教信仰を全面的に放棄すること。

離教――ローマ教皇への服従を拒否し、または教皇に服従する教会の成員との交わりを拒否すること。

ここでは、信仰を養い、育てるという具体的なことが出て来ませんでしたが、聖パウロが言うように、「神に対する無知」から、このような恐ろしい、悲しい心が生まれます。聖書に親しみ、神への愛、キリストへの愛をもっと培い、神を知り、神を愛するように、お互いに努めましょう。

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