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日本のカトリック教会の歴史

10.最後の迫害

聖母マリア像(長崎・浦上教会)
聖母マリア像(長崎・浦上教会)

宣教師に出会って、指導を受けるようになったキリシタンは、はじめのうちは密かに活動していましたが、だんだんと喜びのうちに活発に活動するようになっていきました。

しかし、まだキリシタン禁制は続いていました。長崎奉行所は、そんなキリシタンたちに、監視の目を向けるようになりました。

そんな中、浦上村のキリシタンが、身内の葬式を檀那寺に届け出ず、自分たちで行いました。それまではキリシタンであることを隠し、仏式の葬式を済ませた後、お経消しのオラショ(祈り)を唱えていました。

しかし、宣教師の指導を受けるようになって、キリシタンでありながら仏教の寺の檀家になっていることは間違いであり、許されないことが分かったからです。

そのため、浦上村のキリシタンは仏教の葬式を出すことを拒み、自らで葬儀を行いました。そして檀那寺と縁を切ることを宣言し、村の庄屋に署名入りの文書を提出しました。

このように彼らがキリシタンであることを公に宣言するようになったことで、幕府は再び、キリシタンの弾圧を始めました。そして、浦上キリシタンのうち、おもな者68名が、長崎奉行に逮捕されるという事件になりました。これが「浦上四番崩れ」とよばれるものの発端です。


このように、キリシタン信仰を明言するようになっていったため、幕府は再び、キリシタンの弾圧を始めました。そして、浦上キリシタンのうち、おもな者68名が、長崎奉行に逮捕されるという事件になりました。これが「浦上四番崩れ」と呼ばれるものの発端です。

幕末に浦上キリシタンは3度の弾圧(浦上一番崩れ、二番崩れ、三番崩れ)を受け、そのたびに犠牲者を出していましたが、三番崩れ以前のキリシタンは、信仰に対してはシラを切り通し、信仰以外の点では幕府に従順だったので、あまり厳しく追及されることはありませんでした。

しかし、四番崩れになると、キリシタンたちは一転して、信仰をはっきりと表明したので、幕府は無視することが出来なくなり、厳しい拷問によって、改宗をせまりました。

この問題は、諸外国から批判を受けましたが、根本的な解決を見ないまま、江戸幕府は大政奉還を行いました。1868年に明治新政府が発足しましたが、キリシタンに対する政策は、江戸幕府のものを基本的に踏襲したため、弾圧が続きました。

弾圧の様子を伝える壁画
弾圧の様子を伝える壁画

1868年、浦上のおもだった信者114名が、津和野に流罪となりました。その後、段階的に浦上村のすべての信者3414名が、鹿児島、広島、岡山、金沢など21藩に流されました。
そこで牢に入れて、キリシタン信仰を捨てさせるように説得や拷問を行いました。

津和野の乙女峠というところに送られた信者は特にひどい扱いを受けました。彼らのうち36名が殉教者となりました。また全国に流された信者のうち664名が殉教しています。

この流罪のことを信者たちは『旅』と呼び、今も語り伝えています。

浦上だけではなく、大村藩の三ッ山や、五島のキリシタンなども厳しい弾圧を受けました。

カトリックとプロテスタントの宣教師たちは、フランスやアメリカの領事と協力して、キリシタンたちの自由を求めました。また、浦上キリシタンの抵抗もあって、ついに1873(明治6)年、キリシタン禁制の高札が撤去されて、彼らは帰村を許されました。

こうして、江戸幕府以来約260年ぶりに、キリシタン禁制が解かれ、やがて1889(明治22)年の明治憲法において、条件つきながらも、信教の自由が条文化されることになります。


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