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小倉の殉教者 ディエゴ加賀山隼人


ディエゴ加賀山隼人の殉教碑
ディエゴ加賀山隼人の殉教碑

 1566(永禄9)年、加賀山隼人正輿長(かがやま はやとおきなが)は、摂州国、伊丹隼人正朝明の長男として誕生しました。家族全員が熱心なキリシタンでした。

 加賀山氏は元は伊丹氏と称し、代々摂津国伊丹の城をあずかっていました。しかし、隼人の祖父にあたる伊丹次郎親興が荒木摂津守村重との確執に破れ、摂津国の島上郡古曽部村に退隠したとき、そこに加賀山という山があり、姓を加賀山と改めました。
 その地は、摂州芥川高槻で高山右近の領地でした。

 隼人は10歳のとき、ルイス・フロイス神父から洗礼を受け、イエズス会の同宿として安土のセミナリオで学びました。

 隼人は、17歳のときに右近に仕官、山崎の合戦で初陣を飾りましたが、1587年に右近は信仰の故に領地を失いルソンに流されました。隼人は22歳でした。

 隼人は、キリシタン大名であった奥州の蒲生氏郷に仕えることになりましたが、蒲生氏も病死し、隼人は再び流浪の身となりました。

 隼人はその人物才能を見込まれ、右近の友でもあった細川忠興に仕えることになりました。彼は、しばしば戦功をあげ、その名を高めました。

 

小倉城

 忠興は関ヶ原の合戦の功績により、豊前小倉に移封され、隼人も従い小倉に入りました。1602(慶長7)年、忠興が中津から改築した小倉城に移るにあたって、隼人は豊前国下毛郡の奉行となり、禄高は6千石に増加されました。

 また隼人は、豪勇の武将であっただけでばく詠歌なども極めていました。

 隼人は、グレゴリオ・デ・セスペデス神父と共に、豊前国内の布教に務めました。城下に教会や集会所をつくり、多くの領民を洗礼に導きました。

 忠興は、妻ガラシャのこともあり、最初はキリスト教に同情的で、保護の姿勢をとっていました。しかし、1611(慶長16)年にグレゴリオ・デ・セスペデス神父が亡くなると、忠興は迫害する側に変わっていきました。
 迫害によって、小倉の教会は破壊され、中津の教会も閉じられ、司祭は豊前を去りました。

 1614(慶長19)年の幕府は禁教令を発布しました。忠興は、江戸から小倉の家臣に書簡を送りキリシタンの検挙を強めました。  これによって、十字架や教会は壊され、宣教師たちの墓は崩され、キリシタンたちはつぎつぎと捕らえられ、ある者は転宗し、またある者は殺されていきました。

カトリック小倉教会に建てられた殉教碑

 このとき隼人は、江戸城の普請のために細川藩担当部門の指揮者として江戸にいたため、迫害を免れました。また、小倉に残っていた妻や娘たちも捕らえられませんでした。

 大坂冬の役、夏の役で隼人は、忠興に従って出陣しました。しかし、その後忠興は、信仰問題については一歩も譲らない隼人とその家族の財産を没収し、一軒の田舎家に幽閉しました。

 1619(元和5)年、京都の正面河原での大殉教を目撃した忠興は、隼人を棄教させることができないことを悟り死刑を宣告しました。

 10月15日、忠興からの使者が隼人のもとに遣わされました。家族は、共に殉教することを願いしましたが、その願いはゆるされませんでした。
 隼人は家族を、「今日はわたしにとって一生で最も歓喜を以て祝うべき日だから悲しまないでくれ」と諭しました。

 隼人は、小舟に乗せられ小倉儒家から西に下った干上り(日明 ひあがり)の丘と言われる墓地に連行されました。隼人は、刑場の丘まで詩編と連祷を唱え、刑場に着くと跪いて祈り、「イエス、マリア」と唱えて静かに太刀を受けました。遺体はキリシタンによって丁重に葬られました。
 ディエゴ加賀山隼人は、享年54歳でした。



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