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豊後崩れ(ぶんごくずれ)


大分県 キリシタン殉教記念公園
  大分県葛木 キリシタン殉教記念公園

豊後崩れは、1660(万治3)年から1682(天和2)年にかけて起こったキリシタン検挙事件です。
 豊後露顕(ぶんごろけん)、万治露顕(まんじろけん)とも言われます。

 キリシタン大名であった大友宗麟の保護の元、大友氏の政治拠点であった府内・臼杵・津久見や、有力豪族の拠点の大野郡野津、三重、宇目地方、直入郡朽網(くたみ)、速見郡由布院地方などを中心に宣教が行われ、豊後のキリシタンの数は3万人を超えたと報告されています。
しかし、宗麟の死後、1587(天正18)年のバテレン追放令を受け、長男の吉統(義統)は、宣教師の退去を命じました。さらに、義統の改易と追放によって、大友領地は分断され、キリシタン弾圧が始まりました。

 1657(明暦3)年に起こった大村藩の「郡崩れ(こおりくずれ)」により、新たに宗門改役に任命された北条安房守政房は、諸大名に宗門改めを厳しく行うように命じた。

 これによって、1659(万治2)年5月、大分郡熊本藩領高田手永(てなが)の村々で、キリシタンの男女70余人が捕らえられたことに始まり、臼杵藩、岡藩、府内藩や幕府領で逮捕・拘禁されました。1682(天和2)年まで、キリシタンの摘発が続きました。

 捕縛されたのちキリスト教の信仰を捨てた「転びキリシタン」と、教徒でないのに疑いを受けた人々だけが帰村を許されました。
 この間に豊後国大分郡と玖珠郡だけでも220名が検挙され、長崎に送られました。そのうち長崎で57名が死罪、長崎や日田での牢死が59名、江戸に送られた者が3名、1686(貞享3)年時点での在牢者は36名でした。

 放免は、65名とされています。マリオ・マレガの『豊後切支丹史料』、『続豊後切支丹史料』によれば、臼杵藩領での捕縛者は578名、処刑および牢死が57名と記載されています。

 また、『大分市史』には、熊本藩の豊後領で処刑を免れ転びキリシタンとして登録されたのは393名であったとあり、豊後全体でキリシタンとして捕縛された人々は、1000人を超えたと推察されます。

 このキリシタン検挙事件以後、幕府の禁教政策はさらに厳しくなり、長崎奉行は豊後国だけでなく九州全域の禁教政策に介入していきました。



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