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「一番大切なものは愛よ!」といつも言っていたSr.田島が天国へ

2022.12.12


Sr.田島

高齢者施設に入所しているシスターたちは、コロナ禍にあって、なかなか面会をすることができない、または面会できても、いろいろな制限がある状態が続いています。そのような中、中井富士白苑に入所していたSr.田島と、12月5日に面会ができることになっていました。しかし、容体が急変し、その日を待つことなく12月2日の夜、御父のもとへ召されました。

Sr.田島は、1929年10月9日、日本の植民地時代の京城(現在のソウル)で、に生まれました。敗戦後、日本に引き揚げて大分に住み、1949年に大分教会で洗礼を受けました。1953年に本会に入会し、1959年に初誓願を宣立、1963年に終生誓願を宣立しました。


Sr.田島
葬儀ミサ


Sr.田島
告別式


1960年、韓国ソウルに聖パウロ女子修道会が設立されると、翌年、日本からひとりのシスターが韓国へ派遣されました。そのシスターに続いて、さらに翌年、Sr.田島が韓国に派遣されました。Sr.田島は書院で働きましたが、当時の様子を次のように記して日本に送っています。

「1968年、クリスマスに5人の志願者を迎えました。これは幼きイエスからのプレゼントだと思います。やがて志願者は20名になり、全部で47人のメンバーになりました。書院と訪問宣教で使徒職をしていますが、家庭宣教はとても難しいです。」

韓国の会員が多くなると、日本からの宣教女たちはその種まきという役目を終えて帰国することになり、Sr.田島も1970年に帰国しました。彼女たちは韓国での実りを喜び、帰国後もいつも韓国のことを心にかけて祈っていました。

その後Sr.田島は、大阪教区の聖心書房へ派遣され、単行本編集部、仙台書院、書籍情報案内係、月刊誌「あけぼの」の発送担当として奉仕しました。そのような働きの中で、Sr.田島は社会問題に特別な感覚をもっており、社会活動にも励んでいました。やがてアルツハイマー病を患い、施設にお世話になるようになりました。

Sr.田島は、共同体で何かを決める時には「愛、愛」とだけ発言していました。ある時「シスターにとって愛とは何ですか」と尋ねると「それは親切にすること」との答えが返ってきました。なるほどと思わせる生き方でした。施設の生活の中でアルツハイマー病が進み、いろいろなことが分からなくなっても、いつもジャン・ガロ師著の『愛のいのり』を抱えていました。ボロボロになっても大事そうに抱えていました。いろいろなことが分からなくなっても「愛」ということは大切にしていることがわかりました。施設でも、スタッフの方々から愛される存在だったようです。


Sr.田島
『愛の祈り』
ジャン・ガロ著(女子パウロ会刊)



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