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新世紀ルーツへの巡礼

目次

パウロの娘、ローマへ

3) パウロの娘の着衣式

パウロの娘たち

パウロ家族の出版物を普及することは「使徒職」とよばれ、パウロの娘たちにとって最優先の課題でした。
 そのために、新しい組織と 新しい方法が必要でした。さらに新しい服装も必要でした。

こうして、1928年夏、シスター テクラは、アルベリオーネ神父のひとことで、再び裁縫に取り組むことになります。

この修道服を着用する最初のときには、着衣式がありました。この着衣式は、聖パウロにささげられたアルバの大きな聖堂で行われました。1928年10月の最後の日曜日、王であるキリストの祭日でした。

司教認可

パウロの娘たちのための手続きは、バチカンで着々と進んでいました。教皇自身が聖パウロ修道会を望まれたのですから、修道会省はパウロの娘たちについての決定も教皇まかせにしました。教皇は報告書と書簡だけではなく、綿密な調査、しかも現場の立ち入り調査を要求されました。すべてをごらんになり、すべてがはっきりしたところで、1928年12月に認可されました。

こうして、1929年3月15日、アルバのフランシスコ・レ司教は、聖パウロ女子修道会を司教直轄修道会として認可するラテン語の司教令に署名し、シスター テクラを、「シスター メルロ・テレザを任命する」と彼女の洗礼名で総長に任命しています。シスター テクラは、プリマ・マエストラ(第1の先生の女性形)と呼ばれることになります。

これは、4日後、プリマ・マエストラと4人の顧問たちの公的終生誓願宣立をもって完了します。この4人の名は、エウフロジーナ・ビネッロ(マエストラ・マルゲリタ)、ヴィットリア・ペロン(マエストラ・ブリジダ)、アンジェラ・ラバッロ(マエストラ・テレザ)、マリア・ソルダーノ(マエストラ・エドヴィジェ)です。

新しい女子の修道会には、師イエズス修道女会のシスターたちも含まれていました。ローマの修道者聖省がこう望み、アルベリオーネ神父が行った 第一回目の両者の分離を廃止したのです。

1929年会憲
1929年会憲

この時に印刷された会憲の初版本は 48ページの小冊子で、判型は9x15センチでした。この会憲の試みとしての有効期間は15年ということで、承認されています。

会憲の第2版は 9月15日で、127ページに増えています。
 その大きな変化は、使徒職と統治についてです。

使徒職について付け加えられたのは、次の点です。
 修道会の「第2の目的は、会員がその力と状況に応じて、人々の救いのため、また教会への奉仕のために、特に出版の使徒職をもってはたらくことです。
 それゆえ、聖パウロ女子修道会は、特に出版の使徒職をもって、キリスト教の教義を庶民的に説明し、それを大衆の間に普及するよう努力します。その他に、学校や要理教育などの通常の手段も用います。」(2条)

「聖パウロ女子修道会は、上記の目的の遂行に当たり、できるだけ無償とします。
 寄付金=定価は、修道会とその事業の発展維持に必要な範囲にとどめます。」(3条)

会憲認可の障害となった一つの心配は、修道会が大きな資本を蓄積し、初心を失うのではないかという恐れでした。第3条はその恐れから書かれています。

第4条には修道会固有の霊性を特徴づける信心が書かれています。
 「修道会は、異邦人の使徒聖パウロの名と保護のもとに設立された。また本会は聖師イエスと至聖なる乙女、神の母である使徒の女王に対する特別の信心を公にいたします。」(4条)

◆3--4 パウロの娘、ローマへ


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