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日本のカトリック教会の歴史

9.キリシタンの復活 - 信徒発見 -

長崎・大浦天主堂(国宝)
長崎・大浦天主堂(国宝)

19世紀、ヨーロッパでは産業革命がおこり、欧米諸国はアジア・太平洋地域にも市場を求めて進出してきました。

こうした世界情勢の中、欧米諸国には日本開国を求める機運が高まってきました。フランスのセシーユ監督は、日本の開国に向け、宣教師を琉球に送り、将来の日本布教の布石にするように提案しました。

これを受けた、*1パリー外国宣教会は、宣教師フォルカードを選び、1844年、フランスの軍艦で琉球に上陸しました。

しかし、当時の琉球は薩摩藩の支配下に置かれていたため、鎖国政策に反する外国人の滞在に難色を示し、琉球に滞在中の2年間は、常に監視下に置かれたため、日本語の習得、布教活動とも大きな成果は得られませんでした。

また、1846年には、アドネ、ルテュルデュ両神父が琉球に入りましたが、やはり監禁同様の生活で、布教活動はかないませんでした。その後も何人かの神父が琉球や函館に入り、日本語学習をはじめますが、やはり布教することはできませんでした。

日本の開国、再布教へ

1853年、アメリカのペリーが黒船で来航し、翌年 日米和親条約が結ばれ、日本の門戸がわずかながら開かれました。1858年には*2安政条約が締結され、その翌年の1859年、フランス総領事付通訳兼司祭としてパリー外国宣教会のジラール神父が、ついに江戸に入りました。

1859年、ジラール神父は横浜居留地80番(現 山下町80番)に最初のカトリック教会を献堂し、聖心教会と名付けられました(後に移転し、山手教会として 現在 司教座聖堂)。

この教会には、連日多くの日本人が見物に詰めかけ、総数1万人にも及んだと言われます。なかには宣教師と言葉を交わしたり、教えを求めたりする人びともいました。しかし、まだキリシタン禁制下だったので、1862年には、このうちの33名が捕縛され、牢に拘禁されるという事件が起きました。横浜天主堂事件とよばれるものです。

キリシタンの復活

プティジャン神父
プティジャン神父

長崎へは、フューレ神父が1863年に行き、プティジャン神父と共に、天主堂を建てはじめました。1865年、*3日本二十六聖人に奉献された大浦天主堂が完成しました。この教会堂は、ゴシック様式の尖塔を持つ ヨーロッパ風の建物だったので、連日大勢の見物人が集まりました。

それから間もなくの3月17日、長崎に隣接する浦上村から、見物人を装ったキリシタン十数名が来訪し、プティジャン神父に、信仰告白をしました。

この時プティジャン神父が、パリー外国宣教会・日本管区長のジラール神父に当てた手紙を見てみましょう。

長崎にて 1865年3月18日
……昨日、2時半ごろ15名ほどの男女うち混ざった一団が、教会の門前に立っていました。ただの好奇心で来た者とは、何やら様子が違っています。私は急いで門をあけ、聖所の方に進んで行きますと見物人も後からついて参りました。

私が躓いてほんの一瞬祈ったと思うころ、40歳か50歳位の年ごろの婦人が一人、私の傍らに近づき、胸に手をあてて申しました。

「ここにおります私たちは、みな あなた様と同じ心でございます」
「本当ですか? あなた方は、どこの方ですか? 」
「私たちは、浦上の者です。浦上の者はみな、私たちと同じ心を持っています」
こう答えてその同じ人がすぐに私に、
「サンタ・マリアのご像はどこ?」
(Santa Maria gozo wa doko ? )
と尋ねました。

サンタ・マリア! この祝された御名を聞いて、私はもう少しも疑いませんでした。今 私の前にいる人は、日本の昔のキリシタンの子孫に違いないのです。

信徒発見の聖母マリア像
信徒発見の聖母マリア像

プティジャン神父が「サンタ・マリアのご像はどこ?」の言葉を、このフランス語の手紙にローマ字でつづったほどですから、その感動はかなりの大きなものだったでしょう。

こうして、200年を超える長い期間、司祭のいないまま、キリシタンが密かに信仰を守ってきたことが、明らかになったのでした。

その後、長崎にカトリックの神父がいることが分かると、外海、五島、天草、平戸、今村などのキリシタンが次々と大浦の天主堂を訪れ、信仰を表明しました。そして彼らの多くはフランス人宣教師の指導のもとに、カトリック教会に復帰しました。その数は5万人とも伝えられています。

宣教師たちは、密かにキリシタンの信仰教育に取りかかりました、夜、彼らは、日本人の様に変装し、集会所となったいくつかの農民の家を巡回し、ミサをささげ要理を教えました。また、宣教師が自由に出かけることができないところには、日本人伝道士を育てて派遣しました。

こうして、今まで密かに信仰を守り続けてきたキリシタンが、宣教師たちからカトリックの教理を学び、だんだんと信仰を公に表すようになっていきました。


注釈:
*1 パリー外国宣教会
 外国宣教を目的とする教区司祭による最初の宣教会。1659年活動を開始し、1664年教皇アレクサンデル7世により公認。
 日本にも1831年以来、多くの宣教師が派遣され、日本教会再建の礎を据え、カトリック的遺産だけでなく、思想、文化、社会に多くの影響と感化を及ぼしている。
*2 安政条約
 1858(安政5)年、江戸幕府が米蘭露英仏の各国と締結した修好通商条約。5カ国とも内容は大同小異だが、日米修好通商条約第8条には「日本にある亜墨利加人、自ら其国の宗法を念し、礼拝堂を居留場の内に置も障りなく、ならびに其建物を破壊し、亜墨利加人宗法を自ら念するを妨る事なし……日本長崎役所において踏絵の仕来りハ既に廃せり」と、キリシタン禁教政策の一端が崩された。
*3 日本二十六聖人
(3.秀吉のキリシタン禁教令と26聖人殉教 参照)
 1862年、教皇ピウス9世によって列聖。

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