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キリシタンゆかりの地をたずねて
大籠のキリシタン
カトリック大籠教会
岩手県一関市藤沢町大籠には、江戸時代初期のキリシタン弾圧の遺跡が点在している。
江戸時代に入り大籠では、一関とともに製鉄が始まったといわれています。その方法は、砂鉄を使う「たたら製法」でした。
1558(永禄元)年、岡山の備中に製鉄の指導を受けるために土佐と対馬という2人が行きましたが、思うような成果を得ることができなかったため、備中から千松大八郎と小六郎兄弟を招き、とう屋(「火」に「同」:銅屋)工の指導にあたらせました。
千松大八郎と小六郎兄弟の素性についてははっきりしていませんが、彼らは熱心なキリシタンでした。彼らは、とう屋工指導のかたわら布教に専念しました。また、フランシスコ・バラヤス神父がこの地を訪れ布教にあたりました。
当時のキリスト教の布教は、武士や上流階級へのものでした。職場で、庶民に向けた布教によって、多くの人が信徒となりました。
伊達藩は、鉄の生産拡大のためにキリシタンを保護しました。
大籠キリシタン史跡案内図
しかし、1612(慶長17)年に、江戸幕府は岡本大八事件をきっかけに、禁教令を布告し、キリシタンに対する本格的な弾圧が始まりました。
家光の時代になり、全国各地でキリシタン弾圧が激しくなりました。伊達藩でも拷問による殉教者を出したが、大籠での徹底的な弾圧は10年以上も後のこととなります。
大籠の最初のキリシタン弾圧が始まったのは、1598(慶長3)年のことでした。
1639(寛永16)年、36人、84人と2回でキリシタン信徒が処刑され、翌年には94人、その後数年にわたって迫害が続き、300人以上が殉教しました。
処刑が行われた場所は、地蔵の辻が一番多く178名が処刑され、上野や祭畑、トキゾー沢処刑場でした。
地蔵の辻の20メートルほど沢ノ入川を上ったところに、大きな石があります。この石に伊達藩の役人が腰掛けて、処刑の検分をしたと伝えられ、「首実検石」と呼ばれています。
大籠にはその他殉教にまつわる、殉教者の首を埋めたとされる「保登子首塚」や「ハセの首塚」、地蔵の辻で処刑された遺族が肉親の首を隠れて埋めた「上の袖首塚」、弾圧の際にキリシタンの可否を見るために、とう屋で働く人たちに踏み絵をさせた場所「台転場」、上野処刑場に晒されていた遺体を約60年後に埋葬した「元禄の碑」、キリシタンが処刑を逃れて穴に隠れた「隠れ穴」、聖書やロザリオ賛美歌集などを焼いた「経の森」などがあります。
キリシタンの関連の場所では、この地にキリスト教の教えを伝えた「千松大八郎の墓」、通称流行神と称して大善神(キリスト)を祀った「大善神}、千松兄弟が故郷から持参したデウス(天主)の像を祀る「山の神」、礼拝所「大柄沢洞窟」、「教会跡」、「火葬場」などが残っています。
現在大籠には、巡回教会ですがカトリック大籠教会あり、キリスト教の布教と殉教の歴史を伝える「キリシタン殉教公園」ができています。