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キリシタンゆかりの地をたずねて

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郡崩れ(こおりくずれ)


放虎原殉教地の碑
放虎原殉教地の碑

大村には、大村純忠の時代、領内に6万を超えるキリシタンがいたとされています。息子の善前(よしあき)は幕府のキリシタン弾圧の政策に逆らうことができず棄教しました。

 「郡崩れ」は1657(明暦3)年に、肥前国大村藩の郡村(長崎県大村市)を中心に603名の潜伏キリシタンが検挙された事件のことで、「大村郡崩れ」とも言われます。
 「崩れ」とは、キリシタン大検挙事件のことで、「郡崩れ」はその最初のものでした。

 この事件は、郡村の矢次(やつぎ)の農民・兵作が姉婿である長崎酒屋町の指物屋池尻理左衛門に、「不思議な画を見せながら説法をする者がいるので、行かないか」と誘いました。これを聞いた理左衛門は、キリシタンだと確信し、町役人を通して長崎奉行に知らせ、兵作が捕らえられたことが始まりでした。

 郡村だけではなく、萱瀬村(かやぜむら)や江串村・千綿村(ちわたむら)、松原、彼杵(そのぎ)など広範囲にわたる調査が行われ多くのキリシタンが捕らえられました。

 取り調べの結果、疑いの晴れた者99名、永牢者20名、取り調べ中病死した者78名、そして残り406名が打ち首と決まりました。あまりにもその数が多かったため、各地に分けて処刑することとなりました。大村では131名、長崎118名、佐賀37名、平戸64名、島原56名とそれぞれの地で処刑されました。

 この事件後、藩内では厳重な検索と、キリシタン禁止制策として仏教の檀信徒であることの証明を寺院から請ける「寺請(てらうけ)制度」や、5軒1組で組織し、相互監察、相互扶助、貢納確保などのため連帯責任制「5人組制度」、「絵踏み」などが行われるようになっていきます。
 この政策により大村藩のキリシタンは木場、外海(そとめ)地方を除いて壊滅することとなりました。



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