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聖パウロとわたし

パウロの回心と召命

聖パウロ女子修道会 シスター三嶋 邇子

聖パウロ

パウロは、離散ユダヤ(ディアスポラ)人として、小アジアのキリキア州の商業都市タルソに生まれ、ギリシャ文化圏の中で育ちました。律法に関しては、ガマリエルのもとで学び、厳格なファリサイ派に属し、ユダヤ教に精通していました。しかも、ローマ市民権をもつ身分でした。このような背景をもつパウロは、ユダヤ人とギリシャ人との間のかけ橋になるよう、キリスト教が全世界に出ていく唯一の道となるよう、まさしく、神の選びの器となるにふさわしい人物でした。

ダマスコ途上でのキリストとの出会いは、パウロの回心であると同時に、彼の召命の出来事でもあります。パウロは自身のことばで、この出来事を次のように述べています。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた…」(ガラテア 1.15-16)。

最初はユダヤ人たち相手に宣教を始めたパウロは、イエス・キリストへの信仰によってのみ救われると述べる彼の福音に対して、律法の必要を主張するユダヤ人たちの反対にあい、しだいに異邦人に向かうようになります。「もし自分の運命を自覚した人がかつてあったとすれば、それはパウロであり、その運命はよい知らせのことばを異邦人の世界にもっていくことであった」(W.バークレー)。そのように、パウロは宣教活動のたびごとに、自分が異邦人の使徒であるという自覚を深めていきました。そして、エルサレム会議で「ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしには割礼を受けていない人々に対する福音が任された」(ガラテア 2.7)と、異邦人の使徒となることが彼のもつ特権であることを確かなものとしていきます。

「彼はいつも自分をつくりあげつつあった。しかし後年になるまで、彼が何になろうとしているか知らずにいた」とデビット・スミス(『パウロの生涯と手紙』の著者)はいっています。パウロ自身は、ダマスコの事件については語っていません。彼にとっては、この出来事の意味を自分の生涯に統合し、それをいかに生き、いかに神学に再現していくかのほうが重大だったのでしょう(マルティーニ師『パウロの信仰告白』参照)。

パウロの神学は机に向かって、論理を組み立てて体系的に作りあげたものではなく、彼は何よりもまず、経験に基づいて話しました。歩く宣教師として、小アジアを駆け巡り、ローマにも足をのばし、世界の果てスペインに行こうとしていました。それと同時に、彼が形づくった教会の信徒に向けて、そこで起こっている事柄に心をくだき手紙を書いています。彼が生きていたのは、教会が形成されつつある時代で、いろいろな誤りや思想家たちに対処し、とくにユダヤ化主義者との対決に出会わなければなりませんでした。年を経るとともに、さまざまな出来事のうちに、イエスはパウロにとってますます不思議なものになっていきました。キリストの計り知れない富をさまざまな状況の中から識別し、キリストのうちに新しい偉大さと価値を発見していきました。いまわたしたちは、手にしているパウロの書簡から、パウロの人柄と同時に、彼の深い神学をそこから汲み取ることができます。

パウロはユダヤ教徒としての熱心さは正しい認識に基づくものではなく、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかった、といいます(ローマ 10.3参照)。そして、キリスト教徒となったパウロは、「もうわたしが生きるのではなく、わたしのうちに生きるのはキリスト」といえるほどに、キリストと一つになって宣教していきます。わたしたちは、回心の最初の時から、キリストとのまったき一致のうちに、宣教にまい進していったパウロの姿を想像しがちです。しかし、フィリピの信徒への手紙を読むと、「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死のすがたにあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(ローマ 3.10-11)といい、自分はすでにキリストを捕らえたわけではなく、「キリスト・イエスに捕らえられたので、なんとかして捕らえようと努めているのです」(ローマ 3.12)といっているパウロに出会います。こういうパウロに接すると、探求し続け、歩き続けた彼の姿がそこにあり、わたしもパウロをもっと深め、何とかしてそのパウロの境地にあやかりたいと思うのです。

パウロがこれを書いたのは、紀元56年~57年ごろでしょう。それから何年か経て、パウロは殉教していきます。死の瞬間、パウロの心に去来したものは何だったでしょうか? パウロの晩年に思いをはせながら、あらためてパウロを読み直しています。



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