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聖パウロとわたし

「フィレモンへの手紙」から

聖パウロ女子修道会 シスターマリア・パオラ 田中 昭子

牢獄の聖パウロ

修道会へ入る前、「フィレモンへの手紙」を読み、書かれている愛情あふれるパウロの言葉と、他者のために心を配る発言の背後にキリストの心を感じ、大変感動を覚えた。これがパウロを知る第一歩となった。

短い手紙だが、そのメッセージを思いめぐらすと、福音の宝が込められているように思えた。獄中でパウロはこの手紙を書き、逃亡奴隷オネシモを、彼の主人であるフィレモンへ送り帰す時、持たせた手紙である。パウロは宣教の協力者フィレモンへ命令するのでなく、彼の愛に訴え、期待を寄せ、まるで身をかがめるように書いている。「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで頼みがあるのです。……わたしの心であるオネシモをあなたのもとへ送り帰します。……恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも、自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。……オネシモをわたしと思って迎え入れてください。彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。……」と。

オネシモはパウロに導かれてキリスト者となり、過去の罪の赦しを体験するとともに、人生に立ち向かう力と勇気を得、将来への希望を見いだしたのだろう。生まれ変わって帰ろうとしているオネシモを助けるパウロ。

キリストにある者は「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく……キリスト・イエスにおいて一つ。」(ガラ 3.28)であり、神の前に皆、かけがえのない存在である。一方、奴隷制度が浸透していた当時の社会で、奴隷は人間扱いされず、道具同然で、主人が奴隷の生殺与奪権を持っていた。そのような社会で、キリスト者のフィレモンとその共同体であっても、オネシモを赦し、主にあって愛される兄弟として迎え入れることは、たやすくはなかっただろう。又、パウロにとっても、この手紙を出すことは冒険だったに違いない。しかし、キリストに結ばれた者として、新しい人間関係を生きるよう願い、訴え、求めていくパウロ。その心には「イエスを死者の中から復活させられた方の霊が、あなたがたの内に宿っている」(ロマ 8.11)「神は『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった」(ガラ 4.6)のであるから、パウロの勧めを受け入れる者の心の内に、この霊が働き新しく生きさせてくださるとの信頼があったのではないだろうか。実際、フィレモンはパウロの願いに応えたので、フィレモンにとっても、オネシモにとっても、キリストによる真の解放の恵みを体験することになり、こうしてこの手紙は希望の福音となったのだろう。

神がキリストの霊によって、人間の考えが及ばない枠を突き破り、新しい関わりの意識、人間の尊厳、真の価値観を持つ新しい人を形成してくださることへの招きとして、時を超えてこの手紙は、読む人の心に響くのではないだろうか。

今の時代も、新自由主義や資本主義の論理で支配されたシステム社会は、まるで奴隷状態で人間が軽視されている。この社会を内から新しくしてくださる神の息吹と、それに応える人間が求められているように思われる。

キリストとの出会いによって、それまでの考えや価値観を全く新しくされたパウロは、「福音は、……信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ロマ 1.16)を体験し、「わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリ 9.16)と述べた。このために命を捧げたパウロが告げる福音に、私も深く分け入りたいと思う。そして「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラ 2.20)と言うまでにキリストへと変えられ、愛に生きた証し人、福音宣教者パウロに、少しでも近づき、彼に導かれて、倣って生きていけるようにと願っている。



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